日本家屋に咲く桜は懐かしい記憶を呼び起こさせます
網代天井の渡り廊下から庭園へ、別館へ、大浴場へ
常連客だった花登筺氏にちなんで命名された「銭の花」
自慢は日本文化の中に遊び心を融合させた美しい庭園
キラ星のごとく著名人が集う宿
玉樟はクスノキの一種。よく神社などで見かける常緑高木です。屋号を、かつて敷地内に巨大な玉樟が何本も生い茂っていたことに由来する玉樟園新井は、その発祥を大正時代にさかのぼることができます。バスなど走っていない時代、へんぴな土肥を訪れるのは行商人かワケありの湯治客、もしくは近くの金山にかかわる採掘会社の関連客か・・・。そんな人々の別荘や迎賓館的な役割を果たしてきた玉樟園が、観光旅館になったのは太平洋戦争後。しかしすぐに狩野川台風で壊滅的な打撃を受け、もはや倒産寸前という事態になります。そこに名乗りを上げたのが現在のご主人、新井誠治さんのお父上です。当初は本当に小さな旅館でしたが、日本の経済発展や温泉ブームに合わせて増改築を行い、1989年にはビルタイプの詩季亭が完成。現在では全31室の土肥を代表する老舗旅館として君臨しています。そしてこの宿を一躍有名にしたのは、投宿に訪れた各界著名人たちと、囲碁や将棋の対局の場として頻繁に利用されることでしょう。
伝説の名勝負も数限りなく
「1988年の本因坊戦がここで行われた初めての対局。「囲碁四哲」と称された第十四世本因坊秀和の出身地が小下田で、先の対局はその生誕170年記念だったのです。最近では2008年の羽根直樹9段の新本因坊誕生戦ですね。将棋も王座戦や竜王戦が行われ、2007年の渡辺明・佐藤康光の竜王戦第6局は今でも語り継がれる名勝負でした」。藤沢秀行、羽生善治、谷川浩治、趙治勲、加藤正夫、羽根直樹・・・その道に疎い人でも耳にしたことのある天才たちは、勝負を離れた静養でも、ひんぱんにこの宿に足を運んでいます。その証が館内に筆が飾られている彼らの手になる筆。時に豪放磊落、時に雅やかなその文字は、見る者に種々の感興を呼び起こすに違いありません。
「平凡」こそが最高のおもてなし
旅館の仕事は「だれでもできそうでできない」という新井さん。なぜならば「毎日同じことを繰り返さなくてはいけないから。私も、ちょっと飽きたな・・なんて思うこともあるけれど、無いものねだりをしても仕方がない。父がつくりあげた玉樟園新井には愛着があるし、それを求めていらっしゃるお客様がいる以上、頑張って維持していこうと思います」。新井さんのお話の中に何度も出てきた「平凡」という言葉。それこそが、玉樟園新井のおもてなしの神髄を象徴しているようです。
遊び心が随所に活かされている個性的な日本庭園
「こばこ」は花登筺氏が「細うで繁盛記」を執筆した部屋
花登筺氏を魅了した桜は玄関脇に。開花は1月末から
利き酒師でもある料理長がこだわる土肥ならではの風味
先代が作り上げた遊び心あふれる空間
純和風から和モダンへと流行のスタイルが変わるにつれて、温泉旅館から失われていくもののひとつに庭園があります。「庭園はある意味日本文化の象徴のようなものですから、庭を愛でるという楽しみを知らない人が増えていくのは惜しいことですね」と嘆くご主人の新井さん。玉樟園新井は、背後にそびえる山を借景にした、素晴らしい庭造りでも知られる宿です。その秘密は「遊び心」。「この庭園は、私の父である先代が、あれも面白い、これも面白いと集めてきた古い農業用の器具などを利用しています。決して伝統的でも正統派でもないのですが、だからこそ、そういう遊び心をわかってくださる方がいらっしゃると嬉しいですね」。
庭をつくり、山をつくり、自然をつくる
そんなある日、裏山を散歩していた新井さんは大きな桜の木を見つけます。「いや、驚きました。これはぜひともお客様にも見ていただきたいと、竹を取り払って遊歩道を作りました。春はここでお花見もできるんですよ」。敷地内の庭園同様、この山も「つくりたい」と新井さんは意欲を燃やしています。また、玄関口で1月の終わりには咲き始める桜は、「伊豆でいちばんきれい」と評判の木。現在は孫の代に当たりますが、新井さんはその苗木も大切に育て、成長したら幾本かを山に返しています。なにしろこの桜は、散歩をしていた花登筺氏の目を引き、そのおかげで玉樟園新井の常連になったという、いわば縁結びの神。新井さんが注ぐ愛情もひとしおなのです。
忘れられない人々との交流が温かなもてなしに
ところで、玉樟園新井は碁士や棋士だけでなく、たくさんの作家たちにも愛されてきた「隠れ宿」でもあります。北村薫、椎名誠、西村京太郎、赤瀬川原平、竹中労・・・色紙にはそうそうたる面々の一筆が。その中で新井さんが、花登筺氏とともに「忘れられない方です」と名を上げたのが内田康夫氏。「内田先生の作品に実名で宿を取り上げていただいたり、テレビドラマの撮影で女将とエキストラで出演したり。私は腕章を付けた鑑識役でしたが」。玉樟園新井がこうした「実績」を声高にアピールしないのは、「ここは特別な人のための宿ではないから」です。食事も基本は「おいしいもの」であること。伊勢エビやアワビより、ここでしか味わえない風味を楽しんでもらうのがいちばん。そんなごくごく平凡で、でもだれに対しても心のこもった対応をすること。それが多くの人々を惹きつけてやまない玉樟園新井の魅力なのです。
一度は泊まりたい駿河湾が一望できる詩季亭特別室
客室から望む土肥ののどかな町なみと恋人岬
客室の専用風呂にも半露天タイプがありこちらも爽快
貸切風呂「玉竜」は庭に露天風呂まである贅沢な造り
純和風の館内は見どころ満載
樟園新井が建っているのは、大通りから少し入った山側。若山牧水が好んで逗留したという土肥館を横目に左折すると、純和風の門構えが訪問客を出迎えてくれます。玄関をくぐったら、チェックインの手続きは中庭を一望するコーヒーラウンジで。赤い絨毯に白いソファがどことなくレトロモダンな風情を漂わせるここには、見るべきものがたくさんあります。壁に掲げられた有名碁士や棋士の筆、対局が行われた本因坊戦のポスター、作家・花登筺氏の直筆原稿などなど。そちらに興味のない方は、カウンターにずらりと並んだ地酒に注目。実は伊豆は独自の酵母研究が進んでいる土地なのだそう。他では滅多に手に入らない銘柄は、辛党にはたまらない魅力です。
さまざまな和室が魅力
中庭を囲むように配されている客室は、それぞれ異なった内装になっています。どれも風流な和名が付けられており、花登筺氏にちなんだ「こばこ」「銭の花」、囲碁や将棋にちなんだ「九段」「本因坊」や、高台から駿河湾を見渡せる詩季亭の「名月」や「朧月」は特に人気。いずれも基本は純和室ですが、囲炉裏あり、ソファセットあり、展望スペースありと多種多様。部屋に案内された後の茶菓子は、土肥といえばの「恋人岬」。殿様のようなふかふかの座布団で、まずは一服。浴衣に着替えたら、いよいよ温泉に繰り出します。
ぜひ利用してみたい贅沢な貸切風呂
大浴場は商人宿のような入り口が面白い別館1階。「男の湯」大庭園風呂は、のしかかるような青々とした木々が圧巻。女性用は「美人の湯」。でも入れ替え制になっているので、両方のお風呂がちゃんと楽しめます。よりプライベートなお風呂タイムを満喫したい場合は、2カ所ある貸切風呂へ。これがまた、どちらも実に贅沢な造りです。露天風呂の付いた「玉竜」は、かつて大浴場として使われていた露天風呂つきのもの。そして近頃増設されたばかりの「山水」は、自然林に面した素晴らしい設定。張り出したテラスで森林浴をしながら、夏の夜はホタル、秋口にはイノシシやシカなどの珍客にお目にかかることもあります。
貸切風呂は制限時間45分ですが、宿泊客なら利用は無料。予約はチェックイン後の手続きになります。ぜひ試してみたい共用風呂づくしの玉樟園新井ですが、客室の専用風呂もかなりのもの。源泉掛け流しになっているのは本館、石心亭、海花亭の客室だけとはいえ、一部は半露天仕様だったり、2面窓の展望風だったりと、逗留客を楽しませる手はずも万全。気分や体調に合わせて楽しむことができるのです。